日本のカメラよもやま話
その壱 日本一眼レフの勃興
〜オートフォーカスの夜明け前まで〜

  さて、時代をもう一度、1960年代に戻そう。一眼レフは見たままに写すことができるという最大の長所を持っている。ゆえに、その露光決定システムもレンズを通過した光量を、そのままメーターで測光する方式が一番なわけである。いわゆるTTL方式はベストの測光方式ではあると分かっていたのだけど、ニコンFなどを愛用するプロ写真家達は、60年代初頭には、なかなかにこの方式を認めようとしなかった。

今では信じがたいけど、保守的な考えを持つ職業写真家は、当時は露出の決定は、自分の表現に深く関わってくる表現の一部なのだから、それは自分の長年の経験で決定するのがベストであると信じていたのである。それゆえ、ニコンFでも、キヤノンフレックスでも当時の最高級一眼レフは、どれもメーターを内蔵していなかった。高級アマチュア層の要求に応じて、あくまでも露出計は、カメラの外部に取り付ける「外付け方式」が高級一眼レフの証であったのだ。
ミノルタはSRT101などの、手堅い中級機で確固とした一眼レフの地位を築いてきたが、70年代には先進の電子化を押し進める。さらに当時のライツ社(今のライカ社)との技術提携の背景があり、このミノルタXDは、ライカR4のベースとなっている。静かなシャッター音で、一眼レフ離れしたその存在感は今でもファンが多い。
 
 
 
 一方で、TTL測光方式のパイオニアたる東京光学のトプコンREスーパー、そして旭光学のアサヒペンタックススポットマチックなどが、1960年代中盤から登場するようになり、一眼レフの内部に電気回路が組み込まれることがだんだん市民権を得るようになった。特にトプコンREスーパーの場合は、科学写真などの難しい露出の決定に、その力を発揮するようになったばかりか、その堅牢さが買われて、アメリカ海軍の正式カメラとして長年活躍した。一方で、アサヒペンタックススポットマチックは、その商品名をアサヒペンタックスSPと変えて市販され、60年後半から70年初頭には競合機であったミノルタSRT101と並んで、大人気のアマチュア用一眼レフとして、カメラ雑誌の上位入賞者の撮影データはペンタックスとミノルタの一眼レフが、その人気を二分するという時代もあった。

1970年代になって一眼レフは小型軽量化の道を進み始めた。

 その一番バッターはオリンパスM1である。後にライツ社(現ライカ社)から、同社が生産したライカM1とその名前が紛らわしいというのでクレームが付き、急遽、オリンパスOM1にブランド名を変えたので、オリンパスM1は今やレア物になっている。そのいきさつは、1964年にすでに製造中止のライカのM1は、その生産台数も9千台ほどであるから、どうも、ライツの横車と言えないこともない。それだけ、日本の一眼レフが1970年代には世界のカメラメーカーにとって「脅威」となってきた、これはその証でもあろう。

 ミノルタは1970年代半ばになって、一眼レフカメラの自動化を大幅に押し進めた。それまでのSRTシリーズとは根本的に異なる、進んだ電子制御のカメラ、ミノルタXEは、やや大柄なボディながら、精密な露光システムと非常に静粛なシャッターで知られるところとなり、当時、ミノルタと技術提携関係にあった、ライツ社はミノルタXEをベースにした、ライカR3を、さらに5年後の1980年にはミノルタXEの後継機で、さらに小型化されたボディのシャッター優先と絞り優先の両モードを搭載したミノルタXDをベースにした、ライカR4を発表した。このように、日本の進化した技術が、海外の有名メーカーの人気一眼レフの基本の土台として、利用されるようになった。1950年代半ばにライカの距離計タイプのカメラの模倣から決別して一眼レフの道を歩み始めた日本のカメラ工業界は、不断の努力によって、ついに世界最高の一眼レフ王国を築き上げたのである。

 さて、そうなると、万能の日本一眼レフの次のステップは、カメラの究極の進化形、つまりオートフォーカス化ということになるのだけど、今回はここまでで読み切りとさせていただこう。
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