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種清豊のフォトコラムコラム・ギャラリー

2012.09.28【Vol.083】

クラシックカメラ話「リコーフレックス」

国産二眼レフカメラの殆どはドイツのローライコード(1933年発売)のコピーから始まりました。二眼レフは簡素化された構造ながらも十分カメラとして機能し、シャッターとレンズの組み合わせ、ネームプレートの交換をするだけですぐに製品化できることなどから、戦前の日本でもいくつか販売されました。ただ当時は、フィルム枚数が少しでも多いセミ判(645判)やベスト半裁判カメラが経済的な面などから好まれたようです。

今回のリコーフレックスは、理研光学工業株式会社(株式会社リコー)が1941年から発売を始めたカメラのシリーズです。初代リコーフレックスA型は、ローライコードを模倣した準国産の二眼レフを委託製造したものでした。1942年のリコーフレックスB型になって、デザインはドイツ製2眼レフに似せているものの、リコーフレックス独自の板金構造のボディが完成されます。手元にある1942年のカメラ雑誌に掲載された広告には「理光フレツクスB型」となっていて、「二眼レフの中では一番安くてしかも性能が断然いい」と宣伝されています。

戦後1950年代に日本のカメラメーカーの多くから二眼レフが発売されます。扱いが簡単、価格が他のカメラよりは安いなどの理由で二眼レフが普及していくわけですが、その火付け役になったのが、従来のカメラの値段の1/2~1/4程度まで低価格化した、リコーフレックスでした。定価で買ったリコーフレックスをそれよりも高い価格で売るなど、それほどまでの社会現象になった大ヒット2眼レフですが、他社も追いつけ追い越せ、職人が2~3人で作る4畳半メーカーなどが出てくることになります。その結果、国産二眼レフカメラは市場にあふれ、素材も特徴的な板金からダイキャスト製へ、部品にプラスチックを取り入れるなどの低価格競争が続いていきます。

リコーフレックス最終的にはAE機構を組み込んだ二眼レフ、1959年のリコーオート66にまで発展します。ただ、リコーの作るブローニー使用二眼レフとしては最後のモデルになります。時代的には、35mmフィルム使用のコンパクトカメラの普及や、高級一眼レフが登場する時期とちょうど重なり、リコーもその後は一眼レフやコンパクトカメラの生産がメインになり、今日でもデジタルカメラの生産を続けるカメラメーカーになっています。現在でも人気の高い機種のあるリコーフレックスですが、当時本当によく売れたことをあらわすように中古カメラ屋さんでは比較的たくさん眼にすることが出来るカメラのひとつです。

リコーフレックス

リコーフレックス