カメラはライカ
銘機M3とその周辺、その背景
M3か、それともM2か!? その選択は人生の大問題だ。
1954年に世界を震撼させた画期的なカメラ、ライカM3がフォトキナで登場し、一大センセーションを巻き起こした。迅速なレバー巻き上げ、等倍に近いブライトフレームファインダー、そして素早く交換可能なバヨネットマウントで一世風靡をしたライカである。(協力:三共カメラ)。
 さて前回までのあらすじは、1954年に世界を震撼させた画期的なカメラ、ライカM3がフォトキナで登場し、一大センセーションを巻き起こしたということであった。

 1950年代という時代を振り返って見ると、まだ一眼レフの天下にはなっておらず、ライカ型カメラ、あるいはコンタックスタイプのカメラが「政権」をにぎっていた。ライカ型カメラとは、本家ライカの他にそれと同一のコンセプトのカメラ、つまりライカスリューマウントを持ち、横走りの布幕フォーカルプレーンシャッターを装備したカメラである。これに連動距離計が加われば典型的なライカ、あるいはライカタイプのカメラという次第だ。

 ここで、ライカのライバル、コンタックスの歴史をちょっとだけ見ておこう。1932年、つまりライカDII型が発表された時に、宿敵ライカに対抗して天下のツアイスから登場したのがコンタックスだった。ライカを追い越せ!の勢いのコンタックスは、当時としてはその交換レンズの充実度ではライカを凌ぐものがあった。ライカとコンタックスとはそれぞれに熱狂的なファンを擁して、これがいわゆる「ライカ・コンタックス戦争」にまで発展して行くのだけど、そのことはここでは触れない。

 さて、そのコンタックスタイプカメラの特徴をあげるなら、まず第一にコンタックスバヨネットマウントを採用していることがこのタイプの必要条件である。バヨネットマウントは迅速なレンズ交換が可能だから、この点ではコンタックスはライカに一歩先んじていた。1932年からバヨネットマウントを採用していたコンタックスに比較するに、ライカはM3になって、つまり戦後の1954年になって初めてバヨネットマウントの採用に至ったからだ。

 コンタックスというカメラは戦前にドレスデンのツアイスイコン社で作られ、戦後になって旧西ドイツのシュツツトガルトのツアイスイコン社でその後継機が製作された。しかし、これは地の利が悪いというものであったのだろう。ライカの本拠地、ウエッツラーは戦後も西ドイツであったのに対して、戦後東ドイツに編入されたドレスデンでは、旧ツアイスイコン社はその名をペンタコン人民公社と変えて(ペンタコンとはペンタプリズムのついたコンタックスの意味)戦後はペンタコンやプラクチカという35ミリ一眼レフを生産してゆく。

 西ドイツのツアイスイコン社にしても、こちらは早々にレンジファインダーのコンタックスの将来に見切りをつけて、1959年には当時の世界の最高峰の一眼レフ、コンタレックスの生産を開始し、結局、戦前の「ライカコンタックス戦争」は、その土俵を戦後にまで引き継ぐことなく、ライカの一人勝ちと言うべきか、ライカの不戦勝で終わってしまうのだ。

 実際には日本のニコンがニコンSシリーズを製作し、これはコンタックスマウントを装備した一種のコンタックスコピーであったけど、ニコンでもすぐにレンジファインダー機から撤退し、その主力を一眼レフに注ぎ込んだ。さらに旧ソ連では、これはコンタックスレンジファインダーの完全なコピーである、キエフというカメラを製作し、これは30年以上に渡って生産されたコンタックスコピー機となった。 

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