カメラはライカ
 手短に書いて見ると、ライカM3の登場というのは、以上のような歴史背景がある。言い方を変えれば、ライカM3登場の時には、レンジファインダーカメラはそろそろ、その社会的な指命を終えて、そのバトンを一眼レフに渡そうとしていたのである。

そうなると世界の第一線のカメラのバトンを受け取ったのは誰か、という興味ある問題が浮上して来るのだけど、一眼レフ数ある中で、ライカから第一線カメラのバトンを受けたのは、ライカフレックスでもコンタレックスでもない、意外や、それは日本の新生一眼レフ、ニコンFであった。これは重要なことで、プロカメラのメーン機種が一眼レフになったという事実は、逆に見ると、ライカMモデルはその静かなシャッター、暗い場所でも迅速にピント合わせの可能なレンジファインダーの威力で、一眼レフには及ばないある領域の撮影に使用されると言う事態になったわけである。

 ゆえに1960年代のプロ写真家の標準機材を見ると、ニコンFには望遠レンズ、そしてライカM3あるいはM2には広角、標準レンズを使用している姿が良く見られた。特に周囲の環境を乱さずに静かな撮影をしたいという写真家連中は一眼レフではなく、レンジファインダーのライカを好んで使用するようになった。

 読者の皆さんの中には静かな撮影なら、コンパクトカメラがあるのでは?と思われる方もいるかも知れないけど、それはずっと後の話、すなわち1970年代も終わろうという時代のことである。1960年代にはコンパクトカメラはまだ存在していなかったし、実際にはコンパクトカメラ並の小型軽量さを持っていたハーフサイズカメラは、当時はまだフィルムの性能が充分ではなかったので、プロ写真家がこれを使用するなどは、想像も出来ないという次第であった。

 そういう基本背景をわきまえた上でライカM3型を認識すると、これはまず歴史的カメラであると同時に、人類の製作し得た、最高の精密感を持ったライカであるということが分かる。そのほぼ等倍の実景に張り付いたように見える明快で正確なファインダーは、ライカM型の歴史の中でも、これを凌ぐファインダーはついに現代に至るまで製作されていない。

 そのライカM3が登場して数年後、1957年にはライカM3があまりに高級で、もっと買いやすい価格のライカM型を、という市場の声に答えて、ライカM2型が発売になった。ファインダーの構造は若干簡略化し、さらに自動復元式のファインダーを手動復元式にして、価格を若干安くしたモデルがM2型である。ファインダーフレームはM3の50、90、135ミリに対して、35、50、90ミリという広角系に強いファインダー構成にした。

 さらにすでに当時、生産中止になっていたプロ仕様のM3型、すなわちライカビットという迅速撮影が可能なライカの底ぶたと交換して仕様する装置を装着した特殊モデル、ライカMP型に使用する、ライカビットMPを、単体で販売するようにし、ライカM2型にはこのライカビットが、無調整でそのまま装着可能となっていた。

 このため、迅速な撮影を必要とする報道関係の写真家などには35ミリのブライトフレームの使用可能なこと、ライカビットMPの使用が可能なことで、M2は最初のM3の普及型という意味を越えて「仕事の出来る実質的なライカMモデル」というイメージが出来た。

コンタックスの歴史は1932年、つまりライカDII型が発表された時に、宿敵ライカに対抗して天下のツアイスから登場したのがその始まりだった。ライカと並び広く愛用され、戦後にはその完全なコピーが旧ソ連からキエフという名で登場した。
日本のニコンがニコンSシリーズを製作し、これはコンタックスマウントを装備した一種のコンタックスコピーであった。プロ写真家、報道関係に使われたが、ニコンはレンジファインダー機を見捨てて、一眼レフ、ニコンFのほうに力を入れ、世界帝国を築く。写真はニコンS3。
M3人気の中、一方でもっと買いやすい価格のライカM型を、という市場の声に答えて、ライカM2型が発売になったのは1958年。35ミリの広角用ファインダーを備えているので、主に若手のスナップ派カメラマンに愛用された。
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