カメラはライカ
コライカが生まれた街、ウエッツラーの旧市街。中央の赤いタワーは、ドムと呼ばれる教会。
 当時、日大の写真学科の学生であった自分などは、ライカM3を選ぶか、それともM2にするか、というのは、それこそ自分の将来の道を選択する以上の人生の大問題であった。「M3かM2か?それが問題だ!」というので、カメラ雑誌などを片っ端から読んで、その選択に迷ったのである。結局、迷いに迷ったあげく到達したのは、外国のカメラ雑誌や日本のカメラ雑誌で活躍している写真家達が、M3を使用しているのか、それともM2なのかというアンケート調査めいたことになり、自分の好きな写真家連は、いずれもM3ではなくM2の愛用者であることから、ライカM2を購入したのである。

 これは1967年のことであったから、すでに新型ライカM4は市場に出ていたが、もちろんそういう最新型などには手の届くはずもない。私の手に入れたのはブラックペイントのM2型であったけど、当時ブラックのM2などは変わり者が使う変わったライカに過ぎなかったからだ。

 しかし新型ライカM4がライカM2と同じファインダー光学系を使用していること、M4というのは完全な新型というのではなく、むしろM2のマイナーチエンジっぽい機種であるということが、私に「M2は将来に渡って正統的なライカMモデル」となるのでは?という予感を感じさせたのは確かだった。その予感が的中した、という程ではないにせよ、M4の後継機、M5、そしてM4・2、M4・P、さらにライカM6に至るまで、ファイダー系の基本はそのままなのである。これはライカの進歩の無さというよりも、40年前のファイダー構造がまだ現役で使用できる、という優れた長所なのではないか?と最近思うようになった。

 しかし当時のライカの良さを本当に実感するには、やはり、ライカM3とM2を両方揃えるというのが王道であったので、苦労してこの両方を揃えた時には、何か人生の目的を達成した気持ちになってしまった。ただしライカもコレクションするだけではなく、実際に写真を撮影する道具として生かしてこそ、その存在意味のあるものである。

 その二台のライカを携えてウイーンを本格的に撮影するようになった直後、私はさらに新しいライカM型の衝撃を受けた。TTLメーター内蔵のライカM5とそのコンパクト版、ライカCLである。次回はそれらの「新型・電気ライカ」がどのように世界のライカシーンを変えて行ったのかを見て行こう。

 なお、それぞれのライカのデテイルについてここで言及する紙面はないので、それに関しては最近発行された私の翻訳書「ライカポケットブック」(アルファベータ刊 TEL:03・3363・8360)を参考にしていただきたい。
M2は将来に渡って正統的なライカMモデル」となるのでは?という予感を感じさせたのは確かだった。事実、M2はその改良型としてライカM4を生み、それは1984年にライカM6の登場となる。ライカの詳しい系譜は私が翻訳をした「ライカポケットブック日本版」(アルファベータ刊)に詳しいので参考にしていただきたい。
たなか ちょうとく
1947年東京生まれ、日大写真科卒。日本デザインセンター勤務の後、1973年からフリーランス写真家に。ウィーンに8年間、ニューヨークに1年間滞在。東京、ウィーン、ニューヨークなどで個展多数開催。著書写真集多数。最近はクラシックカメラのエッセイの仕事も多い。日本写真家協会会員。
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