Mの旅人 #2|「ライカM11モノクローム」を手に、闇の中にまたたく光を探す旅
モノクローム撮影専用機「ライカM11モノクローム」
カメラは、目以上にものを見る。だからこそ、使うべきなのではないか?
“The camera sees more than the eye, so why not make use of it?” エドワード・ウェストン
M型ライカには、モノクローム撮影専用機が存在することをご存知でしょうか?
デジタルカメラのセンサーには、R(赤)G(緑)B(青)のカラーフィルターが搭載され、レンズを通して入ってくる光を受光しています。モノクロームモードで撮影していても、センサーが受光する光はカラーフィルターを通して入ってきた光であり、画像処理エンジン上でモノクロ変換しているのです。
今回ご紹介するM型ライカのモノクローム撮影専用機「ライカM11モノクローム」には、モノクローム撮影に特化したセンサーが搭載されています。澄み切った青空を撮ろうが、真紅の薔薇を撮ろうが、写し出されるのはモノクロームの写真だけ。デジタルカメラ全盛の時代、何故、モノクローム撮影専用機が存在しうるのでしょうか。
かくいう私もはじめ、モノクロ写真をどう撮ったら良いのか、わかりませんでした。カメラを手に街を歩き、モノクロームモードで撮っても、何を狙おうとしていたのかわからない、ぼんやりとした写真しか撮れないのです。結局カラーで撮り、モノクロに変換し、たまたま良い雰囲気になった時だけ採用するということを繰り返していました。
モノクロ写真を極めたい……と、発売されてすぐに購入した「ライカM11モノクローム」を手にし、大げさな表現になりますが、恐怖に近い感情を覚えました。撮影し、液晶画面を確認しても、RAWデータをLightroomに取り込んでも、モノクロ写真しか表示されない。色から感じる被写体の存在感や、視界に満ちた色彩に頼ることができないのです。これまでのような撮影姿勢では、のっぺりとした写真を撮り続けることになってしまう。真剣に、モノクロームで撮るという意味について考えることとなったのです。
「なぜ、モノクロームで撮るのか?」
答えはひとつではありません。誰もがスマートフォンや最新のデジタルカメラで鮮やかなカラー写真を撮ることができるようになった現代、モノクロ写真を撮ることにはどのような意味があるのでしょうか?
今回の旅先は、立冬のパリ。「ライカM11モノクローム」を手に、読者の皆さんと、その答えを探る旅に出かけましょう。
高感度カメラで真夜中のパリを撮る
ウディ・アレン監督の「ミッドナイト・イン・パリ(2011年)」という作品があります。小説家になることを夢見ながら、ハリウッドの脚本家として小さな成功を収めてしまった人生に思い悩む主人公が、妻との婚前旅行中にパリを訪れ、深夜のパリから1920年代の「狂乱の時代」と呼ばれるパリへとタイムスリップしてゆくという物語です。
1920年代はまだ、カラーフィルムが一般発売される前。現代を生きる主人公がモノクロームの世界へとタイムスリップするという物語の中に「なぜ現代においてモノクロ写真を撮るのか」という問いの答えが隠されているのでは? と考えました。
羽田からパリに到着したのは、夕刻。パブロ・ピカソやジャン・コクトーといった芸術家が創作の場として暮らしたモンマルトル近くのホテルにチェックインし、老舗のビストロで空腹を満たした後、闇に包まれ始めたパリの街を「ライカM11モノクローム」を手に歩き出します。
滞在したホテルは「ムーラン・ルージュ」のすぐ近く。映画やミュージカルでしか見たことのなかった世界で最も有名なキャバレーの周りには、革ジャンや毛皮のコートをまとった若者たちが肩を寄せ合い、頬と唇とを重ね合わせています。
「ライカM11モノクローム」の特徴は、モノクローム撮影専用機であると同時に、高感度で撮影が出来る点にあります。カラーフィルターを省くことで、ISO125-200000という広い感度域に対応し、高感度でもノイズが抑えられているのです。今宵の撮影は、ISO100000固定で、絞りはF16、シャッタースピードはオートとマニュアルの切り替え。レンズは「アポ・ズミクロンM f2.0/50mm ASPH.」一本で臨みます。
50mmレンズでムーラン・ルージュ全体を捉えるには、しっかりと距離をとる必要があります。行き交う車に注意しながら交差点の真ん中まで下がり、シャッターを切りました。
液晶画面に、艶やかなムーラン・ルージュが浮かび上がるのを確認し、シャッタースピードを表示させて息を飲みました。ISO100000、F16という設定にも関わらず、シャッタースピードは1/500。行き交う自動車もブレずに写っています。暗部にノイズは感じますが、カラーノイズのような汚さもなく、フィルムの粒子に近いようにさえ感じます。
ふと、不思議な感覚にとらわれました。ムーラン・ルージュの建物が放つ赤(「ムーラン・ルージュ」はフランス語で「赤い風車」の意)を、モノクロ写真の中に感じたような気がしたのです。顔を上げ、闇夜に浮かび上がる真紅の風車と、モノクロ写真とを見比べます。
「モノクロ写真の中に感じた《赤い風車》は、眼の前の《赤い風車》と何が違うのだろうか?」
答えを出せないまま、闇夜へと溶け込んでゆくモンマルトルの階段を上り始めます。
季節は11月の初旬。大きく息を吸い込むと、肺の中に刺すような心地よい痛みを感じます。F16まで絞り込んでいるので、街灯が線状の光芒を放ちます。道行く人はわずかですが、歩きながらシャッターを切ってもブレる心配はありません。真夜中のパリを高感度で撮るーーこれで、モノクロ写真の醍醐味を味わえるかもしれないと、路地裏に足を踏み入れ、シャッターを切りながら、すぐに出鼻をくじかれることとなりました。
カラー撮影の時であれば「面白いな」と感じた被写体へむけ、シャッターを切れば「何か」は写るのですが、闇夜のモノクローム撮影では、つまらないのっぺりとした写真しか撮ることができないのです。液晶モニターに表示される、面白みのない写真を繰り返し撮影しながら立ち尽くしていると、モノクロ写真家の巨匠・森山大道氏の言葉が脳裏に浮かびました。
「写真は、光と時間の化石である」
ハイコントラストなモノクロ写真で世界を魅了し続けてきた森山大道氏の写真は、夜のゴールデン街でも、ニューヨークでも、どこかに光が写っていました。ニューヨークの映画館のネオンを撮った写真の中に「DARK OF THE SUN」(邦題:「戦争プロフェッショナル」)というイギリス映画のタイトルが写っていたことも脳裏をよぎりました。
光を感じない路地裏を離れ、モンマルトルの階段へと戻り、光を探し始めました。闇夜に目をこらすと、様々な光が夜の世界を構築していることに気づき始めます。
「暗い=撮れない」ではなく、闇の中に光を探すことこそ、モノクロ写真の本質なのではないかと感じた時、それに少し近づけたような気がしました。
聖書の中に「光は闇の中に輝いている」という言葉があります。漫画「風の谷のナウシカ」の中で、主人公・ナウシカが「いのちは闇の中にまたたく光だ」と叫ぶシーンがありますが、モノクロ写真の醍醐味は、闇の中にまたたく光を探すということなのかもしれません。
記憶の中に眠る色を探し、構成する
モンマルトルの丘へと駆け上がり、白い息のむこうに霞むパリの夜景を見下ろしながら、芸術家達の声が聞こえたような気がしました。
「『闇の中に光を探す』だけでは足りないよ。カラー写真だって、光を探して撮るんだからね」
一枚目に撮影した、ムーラン・ルージュの写真が、ずっと脳内に残っていました。ホテルへ戻り、Lightroom上でモノクロ写真として表示されたムーラン・ルージュに、赤い光をはっきりと感じる。同じ時に「ライカSOFORT2」で撮ったカラー写真と比較しても「ライカM11モノクローム」で撮影したムーラン・ルージュの「赤」の方が、記憶の中の赤に近いのです。モノクロームのムーラン・ルージュの写真を見つめながら、ある問いを立ててみました。
「モノクロ写真を撮る意味とは、撮影者と鑑賞者の記憶の中の色を呼び覚ますことなのではないか」
撮影者である私だけではなく、鑑賞者の脳内にも「ムーラン・ルージュは赤い」という認識(記憶)があるはずです。撮影者である私が撮る写真を通して、鑑賞者の記憶の中に眠る色を呼び覚ますことができたら……。パリの街を歩きながら、撮影者と鑑賞者の「記憶色」を蘇らせることをテーマに「ライカM11モノクローム」で撮影してみることにしました。
セーヌ河畔を歩いていると、川沿いの道へと降りる階段の縁に座っている男性の姿が見えました。レンガ造りの壁には、緑色の葉と、黄色く色が変わり始めた葉が手を取り合うように身を乗り出しています。「ライカM11モノクローム」と「アポ・ズミクロンM f2.0/50mm ASPH. 」は、石造りの橋のディテールや、葉の一枚一枚をクリアに写し出してくれますが、撮影者である私が見つめていたのは、セーヌの喧騒の中でひとりたたずむ男性の姿だけ。鑑賞者が何よりも先に、この男性の存在に気づいてくれるように……と願いながらシャッターを切りました。
川沿いを歩いてゆくと、階段の下で、アジア系の男女がスーツとドレスに身を包み、歩いているのが見えました。セーヌの石畳に映える、ブラックスーツと純白のドレス。レンズ上で距離を測り、ファインダーを覗かずにシャッターを切ります。不思議なことに「ライカM11モノクローム」を手に被写体を探していても「カラーでも撮りたかった」と感じる瞬間はほぼありません。むしろ積極的に、白と黒が映える被写体や、その瞬間の記憶を鮮やかに残したいと感じるシーンを探している自分に気づかされます。
川沿いを歩きながら、前方からやってくる、自転車に乗る美しい女性の姿に目を奪われました。女性が走りぬけるであろう、前方7mくらいの石畳に距離を合わせ、カメラを構えます。路肩には車が縦列駐車されており、カラー写真であれば、どこにポイントを絞ったらよいかわからなくなる構図です。でも、これから撮ろうとする写真はモノクロームの世界。ただ、自転車に乗った女性が、車と車の間に来る瞬間だけを狙ってシャッターを切りました。
モノクロ写真は、色という情報を必要としないことによって、見せたい被写体をより際立たせることができます。モノクロームで人物を撮る際には、背景とのコントラストをハッキリ分けるような場所へと回り込むことで、より被写体を際立たせることもできます。
翻って、背景と被写体のコントラストがなくとも、色を消すことによって被写体と背景とのトーンを作り出すことができるのもモノクロ写真の面白さです。この女性が立っていた場所の背景は鮮やかなブルーで、女性の横顔よりも背景に目がいってしまうような状況でした。そうした背景色も、モノクロ写真では利点に変わります。被写体と背景とのコントラストを少なくすることで、女性の知的な横顔を捉えようとした一枚でした。
メトロ(地下鉄)で電車を待っていると、座席に座る白髪の女性に、まるで絵画の世界のような光が落ちているのに目がとまりました。奥に座っている女性のニットは鮮やかなオレンジでしたが「ライカM11モノクローム」を手にしている私の目には、白髪の女性の美しい髪色しか目に入りません。
こちらは、ルーヴル美術館の前を通りかかった時の一枚。
多くの人が訪れたことがあり、テレビや映画で何度も目にしている「ルーヴル・ピラミッド」を、どう新鮮に撮ることができるか。
カラーフィルターを介さないことにより、より幅広いダイナミックレンジを持つ「ライカM11モノクローム」のセンサーを信じ、本来であれば白く飛んでしまうようなシチュエーションで、「ルーヴル・ピラミッド」が浮かび上がるような写真を撮れたら……と考えました。通常のデジタルカメラでは白く飛んでしまうような状況でも「ライカM11モノクローム」は被写体のディテールを、幻想的に写し撮ってくれます。
モノクロ写真においては、撮影者である私と、読者の皆さんの脳内に蘇る色は別なものです。ありのままが写るカラー写真よりも、モノクロ写真の方が、撮影した瞬間の私の意図を、鑑賞者にダイレクトに伝えられる感覚があります。
人間の脳は「光と影」と「色」を脳の別な場所で処理しているそうです。人間の目は、中央部分に色を感知する場所が集中しており、周辺域ははっきりと色を感知しておらず、脳が「こういう色だろう」と想像して認識している。カメラであればレンズにあたる目も、光と色を別に感知しており、センサーと画像処理エンジンにあたる脳も、モノクロームの世界と色とを、別々に認識しているのです。
あくまでも個人的な仮説ですが、人間は世界をカラーとして認識しているのではなく、光と影というモノクロームの世界と、自らの脳が暗算したカラーの世界、各々を記憶の中で再構築している。故に、モノクロームで撮る際には、撮影者がその瞬間に捉えた記憶を、鑑賞者がモノクロームの写真を通して再構築してくれるような被写体を探すということが醍醐味なのではないでしょうか。
同じくモノクローム撮影専用機である「ライカQ2モノクローム」や、デジタルカメラのモノクロモードで撮影する時、撮影者は世界をEVF(液晶ビューファインダー)を通してモノクロームで見ています。しかし、Mの旅人#1で書いたように、M型ライカは光学ファインダーを通して実際の世界を見ています。シャッターを押し、液晶モニターで確認するまで、撮影者である我々もまた、モノクロームの世界を見ることはありません。この構造がモノクローム撮影においても、撮影した時の記憶色を、撮影者と鑑賞者双方に蘇らせる、唯一無二の体験をもたらしてくれると感じます。
撮影した世界を記憶し、モノクロームとして定着した写真を元に、自らの記憶色を蘇らせる。作品を通して、観る者の記憶色を呼び起こし、人間が本来持っている目と脳の構造を利用してより深い深層心理へと訴えかける。それが今も昔も変わらない、モノクロ写真を撮るという行為の本質なのではないでしょうか。
なぜお葬式の写真はモノクロなのか
モノクロ写真について考えているうちにふと「なぜ、遺影写真はモノクロが多いのだろう」という疑問が頭をよぎりました。しめやかな葬儀の場で、鮮やかなカラー写真がそぐわないという理由や、年配の方の写真はモノクロームが多いという理由もあると思いますが、こう考えることができるのではないでしょうか。
「葬儀には、故人と50年の付き合いの方もいれば、つい最近知り合った方もいる。各々の故人に対する『記憶』を蘇らせるのに、モノクロームのほうが適しているのではないか」
新郎新婦が最も輝く結婚式においては、カラーでその瞬間の色を残すことに意味があります。しかしカラー写真は、撮影した瞬間からその記憶は過去のものとして等しく共有されます。5年後、10年後、今よりも画素数や画質が向上してからは、この瞬間のカラー写真は「ノスタルジー」を感じる写真へと変化します。我々が「昭和っぽい」と感じる風景の色は、当時の現実の色ではなく、当時撮影されたフィルムの質感に支配されているからです。
一方、100年前のカメラで撮影されたモノクロ写真と、現代のデジタルカメラで撮影されたモノクロ写真との間には、解像感の違いはあれど、カラー写真ほどの大きな差はありません。
「どんな被写体をカラーで撮り、モノクロームで撮ればいいのか?」と問われた時、私はあくまでも自分の考えとして「歴史的に価値が決定したものはモノクロームで。今その瞬間しか撮れない、移りゆくものはカラーで。」と答えるようにしています。
日々成長してゆく子どもたちや、一瞬の美しさを残したいポートレートはカラーが適していると思いますが、歴史的な建造物や風景、年齢を重ねた人物の写真は、カラーよりもモノクロームの方が向いている、と思うのです。
次回の旅は、ライカM11シリーズの最新機種のひとつである「ライカM11-D」を手に、冬の日本を旅したいと思います。
液晶モニターを搭載せず、撮影プロセスに集中できる「ライカM11-D」というカメラにこそ、レンジファインダーカメラとしてのM型ライカの魅力が詰まっています。Mの旅人#1と今回の#2で紹介した、撮影者と鑑賞者の記憶をどう結びつけることができるか。その答えを「ライカM11-D」を手に、探しに出かけましょう。
つづく。
※撮影機材:ライカM11モノクローム + アポ・ズミクロンM f2.0/50mm ASPH.
■写真家・映画プロデューサー:石井朋彦
「千と千尋の神隠し」「君たちはどう生きるか」「スカイ・クロラ The Sky Crawalers」等、多数の映画・アニメーション作品に関わる。雑誌「SWITCH」「Cameraholics」等に写真やルポルタージュを寄稿し、YouTubeやイベント等でカメラや写真の魅力を発信するなど写真家としても活動。
ライカ GINZA SIX、ライカそごう横浜店にて写真展「石を積む」、ライカ松坂屋名古屋店にて写真展「ミッドナイト・イン・パリ」を開催。また、JR高輪ゲートウェイ駅前では、高さ3m、全長140mにわたる仮囲いデザイン「CONSTRUCTION ART WALL」の撮影・ディレクションを行う。