路上観察紀行

 いつも冗談ばかり言い合っているという路上観察学会も、発足した当初は考現学を意識した真面目な目的があったそうです。それがいつのまにか冗談を楽しむような活動になってしまったのですが、赤瀬川氏の話をうかがっていると、現在の路上観察学会では、この「冗談」が重要な意味を持っているようです。

 考現学という学問は大正時代からあるのですが、考古学が過去の遺物を研究するのに対し、考現学は現在の事物を客観視して研究する学問なんです。一見すると日常の何でもない事物も、ちょっとめくると何かが出てくる。最初はそうした問題に我々も真面目に取り組んでいたのです。ところが活動を続けていくうちに、少しづつ、まあいいやとなってきまして(笑)、今では冗談を言っていないとできなくなってしまいました(笑)。
古壁に不思議な形の染みが二本並んでいた。それぞれの染みに重なって雨樋があったらしいのだが、何だか室町時代の水墨画のようにも見える。(日光)
自転車と長く伸びた草が仲睦まじく寄り添っている。コソコソと何事かを話し合っているようにも見えて面白い。(飯坂温泉)
 
 
 
 
 冗談というのは構えた人や隙がない人には言えません。人間は意表をつかれたときに笑いますし、思わぬ事に笑うわけですが、この思わぬ事というのはリラックスしていないと出てこない。構えていては出てこないのです。機能性が求められる政治や経済の世界では、冗談は多くの場合、テクニックになっています。しかし私達の路上観察ではそれが目的になっているんです。街をブラブラと歩きながら冗談を言い合う、そのことが純粋に楽しいから続けているのですね。
 例えばパチンコで言うと景品をもらうという目的があるので、理屈で考えれば景品ほしさにパチンコに通っていることになります。しかし、本当のところは玉がチョロチョロと穴に入っていくところが楽しい、だからまたパチンコをしたくなるのだと思います。パチンコをする本当の目的は、玉を目で追いかける楽しさの方であって、景品をもらうということは、実は言い訳ではないのかと思うのです。そういう意味では今の私達の路上観察には言い訳がなくなってしまった。本音の活動になっているんです。
私がこの看板の物件につけたタイトルは「公私混同」。誰に何を警告しているのだろう。見れば見るほど不思議だ。(黒羽)
 これまで取材させていただいた林さん、藤森さん、松田さんは、三人ともに、そのお話の中で、「路上観察を行うことで、ものの見方が変わる」ということをおっしゃっていました。この路上観察とものの見方の変化について、赤瀬川氏にもうかがってみました。

 路上観察には「見つける」という宝探しのような面白さがあるのです。路上観察の活動をはじめた当初、カルチャーセンターなどで講演をした後で、集まっていただいた皆さんと実際に路上に出て観察をしたのです。とはいえ急には面白い物件は見つかりません。しかし街中を観察しながら歩いているだけで、皆さんが面白いと言うんです。街中を積極的に面白いものを見つけようという意識を持って歩いたことがないので、面白いらしいのですね。

 私自身も街を観察する面白さを教えてもらい、ものの見方が変わった経験があるのです。以前、林丈二さんがブロック塀を観察すると言うので、つき合ったことがありました。ある区画を歩きながらブロック塀だけを見てまわるわけですが、たまたまそこは新開発された地域で街並みが新しく、味気なかったのです。しかし林さんは、もう計画を立ててしまったので歩くという。私も仕方なく歩いたのですが、なにしろブロック塀だけを見て歩くわけで、最初は全然面白くなかったですね(笑)。しかし見てまわっているうちに、少しづつ面白くなってきたんです。私はそれまで、ブロック塀の穴に文様があって、その文様に様々な違いがあることに気がつかなかったのです。しかし、林さんに教えられてよく見てみると、本当に色々な形のものがある。それに気がつくと、ただブロック塀を見て歩いているだけなのに、それがすごく面白くなってきたのです。
 路上観察というのは、純粋に自分が面白いと思うものを観察して歩くだけのものなのですが、それは結局、自分の感じ方を客観的に観察していることになるのです。路上を観察することで、自分のものの見方がわかってきますし、また林さんが私にブロック塀の面白さを教えてくれたように、仲間と歩くことで新しいものの見方も知っていくことができるんです。
 
 
「ぼく」という店の「ぼ」が脱落して「く」だけが残っていた。経営が苦しいのだろうか。(酒田)
 
 
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