修理人たぐちの徒然日記コラム・ギャラリー
2016.01.15【Vol.1307】
往時は団体客で賑わいを見せた浅虫温泉は熱海温泉と同じく農閑期にも関わらずひっそりとしていました。個人客を粗略に扱った付けなのでしょうか?
展望温泉が名物の道の駅でしたが、温泉より三内丸山縄文遺跡の要望に押し切られ昼食のみと致します。湾内で育った活きホタテの刺身は美味しすぎました。
未発掘の場所もある広大な三内丸山縄文遺跡のジオラマです。
発掘され埋め戻し再現した縄文道路は道幅も広く、木材片を加えた耐久性ある道で土木の達人がいたのか?
北・南・西の三カ所が確認されており、此方は南盛土。所謂ゴミ捨て場ですね!
表層は保護のため土嚢で覆ってあります。ゴミ捨て場にどの様な不要品が捨てられたのか?一部を掘り下げ、風雨を防ぐ建物で覆われ公開されています。
盛土(ゴミ捨て場)は竪穴住居を建てた際の残土、ゴミ、破損した石器・土器等がミルフィーユみたいな層となっていました。
家族単位の縄文中期の竪穴式住居で4500年前と申します。室内は暗く煮炊きをした証として燻蒸した臭いがしました。見つかったのは550棟で15棟が復元されています。
4500年前は現在の気候より暖かかったのでしょうね!氷柱の見学に出向きました秩父の地も厳しい寒さですが縄文遺跡がありで暖かかったのでしょう。
林の先が当時の海岸線との事。海面が高く天然の湯たんぽが暖かさの証なのでしょうね。
掘っ立て柱建物。中に入る梯子が取り外せる構造になっています。
想像の範囲ですが、共同食料倉庫の役割をしていたのでしょうか?
北盛土で何やら真剣に作業をしており、訊いてみましたら建物外から雑草の種等が入り込み芽を出し、遺跡が破壊されてしまうので慎重に竹串を使い草取りをしているとの事でした。
掘り出された建物の柱跡で再現されたレプリカです。本物は保存の為に薬剤処理をしているとの事でした。それにしても太いですね!柱跡は栗材で直径1mもあります。
童謡に「大きな栗の木の下で」がありますが、秋に出かける栗拾いの木はそれ程でもありません。縄文時代の栗の木は巨木だったのですね。
子供の集団墓地で小さな瓶が点在しており、乳幼児の死亡率が高かったのを物語っています。病気になれば祈祷が主な縄文時代です。徐々に薬草の知識を得て行ったのでしょうね!生き抜くには過酷な時代と推察いたします。これまで800基余が見つかっています。
大人の墓の説明板。副葬品としてヒスイのペンダントが出土したとあります。
日本でヒスイを産出するのは新潟の姫川。と言うことは4500年前に広範囲な人人の交流があったことを物語っています。ヒスイは硬玉と呼ばれ硬度6.5~7と硬い鉱物。どの様に穴を開けてペンダントとしたのでしょうね。縄文ロマンは果てしなき。
栗の木は大木になるのですね!昨今はコンクリート製ですが、腐食に強く鉄道の枕木に使用されていた時代もありました。物見櫓でしょうか?葬祭用の櫓なのでしょうか?
大型竪穴復元住居跡。集会所・共同作業所・冬季の共同家屋ではないかと説明があり、春秋と訪れた青森の旅は幕を降ろしました。